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毒親 ①

ここ数年、毒親って言葉をよく耳にするようになった。

何だよそれ、って思って記事なんかを読んで愕然とした。

だってそれ、私の母なんですもの、って。

 

私の母は超がつくお嬢様だった。

戦後間もない日本において、

高級住宅街の豪邸に住み、お手伝いさんがいて、

病弱で入院が多かった母に変わってそのお手伝いさんが常に身の回りの世話をし、

自宅にはグランドピアノあり、

テレビまであって、

物珍しさにどんどん友達が家に遊びに来ていたらしい。

その当時入手など困難を極めていたサテンやシルクの生地を購入して、

リボンや洋服などを作ってもらっていたり。

同じ服はあまり着たことがなく、いいな、と言われたらあげちゃうような、

典型的なお嬢様だったらしい。

そんな母は、当時遠距離だった父の猛烈なアプローチで結婚、東京へ来ることになる。

そこでの暮らしは母の想像には全くないものばかり。

キッチンと6畳の部屋がひとつだけのボロアパート。

買い物など、洋服なんかは行ったことがあってもスーパーなんぞその存在を知っていた程度だった母。

お財布持ってお買い物に行って、とりあえず食材(と思われる)ものをかごにいれ、

会計を済ませてから目に入ったケーキ店でケーキを買う。

するとお財布はすっからかん。

とりあえず料理をしようとキッチンへ。

材料はあるけど、包丁も何となく持てるけど、何をどう作っていいやらさっぱり。

首を傾げている内に日が落ち、とりあえず父の帰宅を待つ。

「ただいまー」とドアを開ける父に、

「ご飯の作り方が分からなかったから作って♡」

父、絶句。

料理が得意の父はそれでも作ってあげて、作り方も教えてあげたらしい。

そして食後に出されるケーキを仲良く堪能した後、母から爆弾。

「あ、あとね、今日お買い物でお財布空っぽになっちゃったから、お金頂戴ね♡」

父、倒れる。

 

当時給料は現金渡しだったので、母は渡されるそのお金は

・家賃

・光熱費

・食費

・交際費

等と仕分けて使用するという概念がなかったため、1日で使い果たしてしまったのだ。

恐るべしお嬢様の生態。

 

その後すぐ私を妊娠。

慣れない主婦生活、初めての妊娠。友達はおろか両親は遠方。

夫は帰宅が遅い。

苦労に苦労を重ねて、母は今とても料理が上手だ。

 

そんな私の母は、高レベルの毒親になった。

貧乏暮らしも慣れてきた中、初めての子供が女の子だったせいか、自分の生きてきた幼少期を思い出し、私にも高い理想をもって子育てをした。

例えばオムツ。

9カ月でトレイトレーニングをさせた。

私は歩くのが早かったので、当時すでに歩いていた。だから母はすぐにオムツを外したかったのだそう。

「だってオムツってお洒落の邪魔だったから。」

どのくらいで取れたのかは聞いていない。聞きたくなかったから。

幼稚園に入る前には、平仮名カタカナ全て読み書きができた。

小学校に上がる前には、足し算引き算掛け算割り算ができた。

小学校に登校する前には、1分間で100問の計算をこなすことが義務付けられていた。

小学校3年生に上がる前の春休みに引越しをし、4年生に上がる時に近所の私立小学校への転校を要求されて、毎日夜勉強をさせられた。

それ以外に、小学校に上がってからはピアノとバレエを習っていた。

ピアノは毎日3時間の練習を義務付けられ、テレビはニュース以外禁止だった。

私は日々、友達と遊ぶ時間が少なくてだんだん辛くなってきていた。

そして母親にある日言った。これは今でも覚えている。

「私、受験したくない」

母は猛烈に怒ったが、私は頑なに受験を拒否した。

その話を聞きつけた近所のおばちゃんが母を説得してくれて、私はようやく小学校受験というタスクから逃れることができた。

 

それでもピアノの練習は3時間。

毎朝100問だったドリルは300問に増えた。

弟と妹は、アコーディオンカーテンで仕切られた部屋の向こうで、何やらアニメを見たりしてる。

私はひたすらピアノ。

3時間の間に夕飯になってしまうと、私だけ取り残されて食べられなかった。

練習が終わると冷めたご飯をひとりで食べる。

弟と妹はテレビの続き。

私は全員の食器を洗い、お風呂の準備をし、二人をお風呂に入れる。

そして宿題を済ませるために別室へ。

その頃弟と妹は母と何をしていたんだろう。

今ふと疑問に思ったけれど、これももう知りたくない。

 

今思えば、これは虐待にも近かったんだろうと思う。

でも当時の私はそう思っていなかった。

差別されているのは分かっていた。

でも「差別」という言葉を知らなかった。

単純に「なんで私は一緒にテレビを見れないんだろう」と思っていた。

「ピアノを頑張って練習していたらいつか私も一緒にテレビを観たりご飯を食べたりできるようになるのかな」

そんな風に思っていた。

 

私の小学校生活は段々おかしくなっていった。

成績がどんどん落ちて行った。

忘れ物もひどくなって、毎日必ず何かしら忘れて行った。

教室の机の中はゴミが溢れていることが多かった。

当然担任は問題視して、連絡帳にそれを書く。

そして母はそれを読んで激怒する。

でも私にも何でそうなるのか分からなかったからどうしようもなかった。

怒られるままに怒られ、泣いて許しを乞う日々。

ピアノ3時間、お風呂、宿題。そして翌日の準備。

必死に、それこそ必死に、私なりに思いつく手段を講じてみた。

だけど何一つ好転しなかった。

 

小学校6年生になったとき、母はまた同じ私立の中学への受験を言い出した。

そこは都内でも名門の女子校で、偏差値で言うと60後半から70と言ったところ。

詳しくは書かないが、とても特殊な試験方法をすることで有名で、その女子高受験する人をターゲットにした塾まであったくらいだ。

同じ学年からも5人程度そこを受験するようだったが、私は正直興味がなかった。

でも言い出せなかった。

言われるがままにまた、ピアノ、バレエ、家事に加えて受験勉強に励んだ。

私以外の4人の受験者は上述の塾に通ってたが、当然、私は塾になどは通わせてもらえない。

どうせこんなことで受かるわけがない、そうしたら母も諦めてくれるだろう。

 

正直、当時のことは全くと言っていいほど覚えていない。

 

だから、記憶の中ではあっという間に受験の日になり、あっという間に合格通知を受け取ってしまい、私が受かってどうしてうちの娘が落ちるんだ!と、殴り込み訪問を受けて、あっと言う間に卒業式になっていた。

 

でも私はまだ気付いていなかった。

 

私の親が、のちに「毒親」と呼ばれるような存在だったということに。

私がいわゆる「虐待を受けて育った子供」だったということに。

 

 

つづく